ヒーリング・アートについて | 教員エッセイ

ヒーリング・アートについて

「~癒しの空間をデザインする~ヒーリング・アートの実践から」

ヒーリング表現領域1年次授業、講義科目の中で、学生に問いかけたメッセージの一部をご紹介いたします。

 

ヒーリング・アート

ヒーリング・アート(Healing Art)とは、「爽やかな気分になって、心が落ち着くことを目的としたり、沈んだ気持ちに対して、元気づけのきっかけとなる芸術」を意味します。それは、絵画、彫刻、デザイン、オブジェ、映像、インタラクティブ・アート、音楽など様々な芸術分野での表現手段が考えられます。
女子美術大学では、ヒーリング・アートプロジェクトという形で、これまでに約30カ所以上の病院や介護福祉施設、その他様々な公共施設で、壁画や絵画の設置や、デジタルシートの施工を通して、空間をコーディネイトしてきました。
その中でも、特に力を入れて実施してきた病院のヒーリング・アートプロジェクトについてお話しする事で、社会におけるアートの役割について考えてみたいと思います。

 

医療空間と過剰なストレス

現在、日本人の殆どが病院で出産し、9割近くの方が病院で生涯を終えます。また、人は必ず、病気というものを経験します。そして病気の状態が悪い場合、入院をすることにもなります。
病気への不安を抱えながら、辛い治療と向き合い、行動の規制が多く単調で変化の少ない入院生活では、病気とずっと向かいあっていることの疲れから開放するために、病院生活という日常を少しの間だけでも忘れ、気持ちを開放するための変化が必要です。
病院は、病気の不安や傷の痛みを抱えて精神的なストレスが大きくかかっている患者が利用する場所であり、本来そういったストレスに対する配慮と工夫が最も必要な場所であるはずであるのに、病院空間はデザイン要素やアートの存在が感じられず、ただ白い壁に囲まれ、快適さにつながる配慮が感じられないところがまだまだ非常に多く見受けられます。
インテリアや雑貨など生活空間の豊かさへの提案が次々と紹介され、潤いのある生活が日常化されているのに、病院という場所は、つらい治療に専念する環境でありながら、精神的なケアに関わるデザインやアートについての意識が足りないのが現状です。しかし、人間の生と死にかかわる医療空間には、アートやデザインとの触れ合いが患者の精神的なケアに大切なのだという認識が必要です。
そういった点から、心の癒しの効果を考えた環境を整えていこうとした場合、ヒーリング・アート(Healing Art)は大変効果的な働きを持っています。

 

ヒーリング・アートを通じて生まれるコミュニケーション

病院にアートを設置した後、飾られたアートを交えての患者と家族のコミュニケーションや、患者と医療スタッフとの心の交流の現場を目にする機会が度々ありました。ある病院の小児科で、お母さんに手を引かれながらも治療を怖がって泣いていた小さな女の子が、大きな画面に沢山の花が描かれている壁画の前に来た時、急に泣き止んで「お母さん、きれいなお花の絵ね」といっておもわず壁画に駆け寄り、色々な花を指差しながら、お母さんとしばらくの間お話をして、それから診察室に入っていくところに出会いました。また、別の病院では、リハビリテーションセンターの前にある長い通路に数点の絵を飾った時、介護スタッフに付き添われて一生懸命歩行訓練をされている年配の男性が、1枚の作品の前まで辿り着いて、「ああ、やっとこの絵の前まで来ることが出来ました。この絵はとても気に入っているのです」と言って、介護の方と作品の内容について、楽しそうに会話をされていました。こうした場面に出会うと、壁画や絵画といったアートがきっかけとなって、会話やコミュニケーションが生まれていくことも多々あるのだとつくづく感じます。こうしたエピソード以外にも絵を飾ることで病院では、日常的に絵と人との対話が色々なかたちで生まれてくるのです。
アートを設置した後、患者、家族、医療スタッフの方々から、これまでに沢山の声が寄せられてきました。
一部紹介いたします。

  • 今日、次男の診察のため病院を訪れました。すると明るく楽しい絵がロビー全体に一杯展示してあって、思わず子供と一緒になって絵を見て回りました。診察の不安も忘れて待ち時間を過ごすことが出来ました。実は長男を数年前に病気で亡くしたのですが、入院したところには、このような素敵な作品は全く飾られていませんでした。次男がうれしそうに絵を見ながら診察を待つ姿を見ていて、亡くなった長男がもしこのような病院で最後の時間を過ごすことが出来たらどんなにか幸せだっただろうと思い、涙が出てきました。このような活動を是非続けられて、全国の病院にもっと広げていってほしいです。(38歳 付き添い 女性)
  • この病院の絵画を通院の度に見ています。通院に来ることが楽しい訳がありません。もともと絵を見ることが好きでしたが、この病院での絵を見る時は、ほんの少し病気のことを忘れます。芸術は、人の心を動かします。(52歳 通院 男性)
  • 頭痛を伴い、重い気分で展示してある通路にさしかかり、作品の前で足が止まり、15分ほど見入ってしまいました。頭痛も吹き飛んで軽い気分になりました。とても良かったです。なにより重い気分が軽くなりました。(53歳 通院 女性)
  • 私の主人が長い間入院していましたが、8年前に旅立ちました。その時よく二人で廊下に飾ってある絵を観てとても心が穏やかになり、車椅子に乗る主人も楽しみにして過ごしたことを思い出しました。(67歳 入院 女性)
  • 作品「あなたはとべる」は最高のいやしでした。がんの闘病に当たって、死の予感に対して、空にとべるうれしさは、不安を吹きとばしてくれました。これからの人生が楽しみです。作者の方に感謝します。(68歳 通院 女性)
  • どの作品も色合いが素敵で、すがすがしい気持ちになりました。絵を描くことの苦手な私ですが、こんな絵を描いてみたい。またいつまでも見ていたいと思う作品ばかりでした。このような絵がオペ室の入口、小児科、産科病棟などに描かれていると、心が和むように感じました。病院というと冷たい、無機質というような印象を受けがちですが、このような素敵な絵を院内の多くの場所で見たいと思いました。(30歳 通院 女性)

また、こども病院から、CTスキャナ検査室にヒーリング・アートを描いてほしという依頼があったときのことです。CTスキャナ検査室は、大きなスキャナの機械が狭い検査室の真ん中にドンと立ちはだかり、ゴーゴーッという大きな機械音を響かせて、大人でも不安になる部屋です。しかも、検査台の上に寝かされて、ベルトで体をしっかり固定され、技師さんが準備を終えると、「動かないで」といって隣の操作室に入って行ってしまい、一人密室に取り残されてしまうことになります。たいていの小さな子は、やはり泣いてしまうことが多いのです。アートの制作に当たっては、検査を受ける小児患者の立場になってみた時、どの様に検査室の空間を感じているのかを考えるよう努めながら、この病院のシンボルキャラクターが「ラッコ」でしたので、ラッコと海の仲間たちがいる世界を描いて空間演出をおこないました。
入口から検査台に向かう床面をタラップに、検査台を潜水艦「お魚号」の操縦席、検査機器のドーム状の形態を潜水艦の操縦室に見立て、そこにはラッコの操縦士がいます。また、検査室の空間全体に海中の世界を演出し、海中探検に出発するようなイメージ空間の企画を立案しました。そこでは小児患者自身が主人公(探検隊長)となり、自由にストーリーを創造し、ディズニーランドのアトラクションに臨むような雰囲気の中で、検査台に寝かされた際、少しでも緊張感や恐怖感を和らげることが出来ればとの思いがこのプロジェクトのコンセプトとなっています。
アートを施工後、看護師さんから次のような報告が沢山寄せられました。
こちらも一部紹介いたします。

  • 落ち着きがないので、鎮静剤なしで撮影が出来るか、また慣れない環境で大丈夫かと心配しましたが、「潜水艦の船長になって探検してください」と、絵を見ながら物語にして話をすすめたところ、とても興味を持ち、問題なく(検査を)終了した。(6歳 男子)
  • CT室は初めての児。鎮静剤投与をするかどうかで、医師から相談を受けた。理解力のありそうな児だったため、よく話してきかせて、一度「練習」とCT室を見学に行った。魚の絵にとても興味を示し、「がんばれそう」と児から言ってくれたので、そのまま開始。とても上手に撮れました。児は「お部屋がかわいかった!」と喜んでいました。(4歳 女子)
  • CTははじめて。CT検査について事前に医師より本人に説明あり。児は「先生が楽しいお部屋に行っていたけど、どんな部屋かなあ~」と楽しみにしていた様子だった。
    部屋に入り「うわ~」と歓声をあげ、ニコニコしながら検査終了。事前のプレパレーションも含めて、お手本のような事例でした。(3歳 女子)
  • 色々な検査をする予定の子を見学に連れて行き、「CT室も探検しよう!」と、予定には入っていなかったのだが見せたところ、楽しんで見学して、検査自体に前向きになった。CTが検査に入っていないと伝えると、「えーっ、やりたい」と話していた。(7歳 女子)

このようにアートは、人間関係を穏やかにつなぐ心のコミュニケーションの橋渡しの存在にもなるのです。そして、心の安らぎや安心感をもたらし、時には励ましの役割を果たしていることが伺えます。

 

医療空間におけるヒーリングの演出

ヒーリング・アートの表現方法は、平面作品でも、手描き、デジタル表現など様々な応用、展開方法が可能であり、各自の工夫次第でアートによる空間演出の可能性が広がります。
医療空間において、アメニティー(快適性)を配慮した環境づくりを考えるとき、アートの設置やデザインのトータル計画は大切な要素になります。空間の演出の配慮によってその場の雰囲気は大きく変わってくるからです。逆にそうした配慮の無い空間では、殺風景で冷たいイメージや落ち着かない感じがつきまとい、それが利用者にとってのストレスの要因となってくる恐れが十分あります。医療空間において心の癒しの効果を考えた環境を整えていこうとした場合、そこを利用する不特定多数の人々の感性に働きかけることになってきます。どのような場所に、どのようなアートを設置するか、またどういったデザイン計画を立てるのかを空間全体を注意しながら慎重に検討してみる必要があります。事前に利用者にアンケート調査や聞き取り調査などを行ない、利用者の視点に立って空間を見直してみる姿勢も大事なことです。癒しを目的とした表現、手段、その媒体は、グラフィックデザイン、インテリアデザイン、カラーコーディネイトといったデザイン要素や、絵画、立体作品、映像など幅広いジャンルのアートに存在します。この空間にはどういったものが必要なのか、トータルなイメージをしっかりと持って計画的に演出してみることで、個々に適応した、アメニティー(快適性)を考慮した癒しの空間が生まれると思います。日常生活空間や、医療空間におけるアートによる空間演出は、人の心に大きく作用し、精神面から身体の健康の向上につなげていく栄養剤になります。

 

医療に関わるアート・デザイン活動の役割とその連携

これまで環境芸術としてのヒーリング・アートが医療空間に果たす役割について説明をしてきましたが、それ以外にもアート・デザインの手法が医療に関わり、機能や役割を果たす分野があります。ワークショップ、ユニバーサルデザイン、アートセラピー、アートプロデュースなどはその例ですが、それぞれの立場から、医療空間を考えることも重要です。それらの特長や働きを理解し、そして相互関係を持ちながら機能していくことで、更に医療空間の環境が改善されることと思います。

  1. ワークショップからのアプローチ
    入院患者自身が、自主的にアートワークに参加し、作品を作り上げていったり、空間デザインの提案をしたりすることは、生きがいにつながります。
  2. ユニバーサルデザインからのアプローチ
    病気や障害の有無にかかわらず、だれもが無理なく利用できる生活の中のデザインを考えることです。
  3. アートセラピーからのアプローチ
    患者自身がアートに参加して、治療効果をあげる療法としてのプログラムです。
  4. アートプロデュースからのアプローチ
    アートのトータルな演出、コーディネイトを考えていきます。

それぞれの分野では、どんなことが出来るか、また他の分野と連携し協力することで、いろいろな可能性が生まれてきます。
病院がアートやデザインから取り残された場であってはなりません。人間の生と死に関わる医療空間に、アートやデザインが大切なのだということを考え、今後も医療空間の環境をより良くするために、その場所に応じたアートの活用方法を考え、学生の皆さんと一緒にプロジェクトを実践して行きたいと考えています。

(ヒーリング表現領域教授 山野雅之)
2010年5月17日「ヒーリング・デザイン概論」講義録から